汪德林 发表于 2010-12-7 15:04:09

刊登在日本大百科全书上的汪姓人物(总5位)

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汪琬(おうえん)
(1624―90)
中国、清(しん)代の文人。字(あざな)は苕文(ちょうぶん)、号は鈍庵(どんあん)、堯峯(ぎょうほう)、玉遮山樵(ぎょくしゃさんしょう)。江蘇(こうそ)省長洲(蘇州市)の人。1655年(順治12)の進士。戸部(こぶ)主事、刑部郎中を経て、70年に引退し郷里の堯峯山に隠居したが、79年推されて博学鴻詞科(こうしか)を受けて合格、翰林院(かんりんいん)編修を拝して『明史(みんし)』編纂(へんさん)に従事した。清初の唐宋八家文を鼓吹した一派の人として知られ、欧陽修(おうようしゅう)、帰有光(きゆうこう)を尊んだ。また経学に造詣(ぞうけい)が深く、経書臭の強いその文は「儒者の文」と評されている。生前に自作をまとめて『鈍翁類稿』62巻、『鈍翁続稿』56巻があり、さらに精選して『堯峯文鈔(しょう)』50巻とした。
[ 執筆者:佐藤 保 ]


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汪兆銘(おうちょうめい現地読み:ワンチャオミン)
(1883―1944)
中国の政治家。字(あざな)は精衛(せいえい)。広東(カントン)省出身。日本の法政大学に留学中、中国同盟会に入り、機関紙『民報』の記者を務めた。1910年、清(しん)朝の摂政王暗殺未遂により、死刑の宣告を受けたが、辛亥(しんがい)革命で大赦。のち広東国民政府にあって孫文(そんぶん/スンウェン)を助け、連ソ容共を内容とする1924年の国民党改組に参加した。孫文の死後は、廖仲 (りょうちゅうがい/リヤオチョンカイ)、胡漢民(こかんみん/フーハンミン)らとともに国民党左派の中心となって蒋介石(しょうかいせき/チヤンチエシー)と対立、1927年の国共合作政権である武漢政府にも参加した。国共内戦と世界恐慌のなかで自己の方向を失い、蒋介石との派閥抗争に走った。1938年4月、国民党副総裁になったが、日中戦争激化のなかで、日本軍の画策にのって、重慶(じゅうけい/チョンチン)から脱出。ハノイで和平建議を発表して日本の近衛文麿(このえふみまろ)首相に接近し、1940年3月、日本の傀儡(かいらい)である南京(ナンキン)政府を樹立、主席に就任した。1944年(昭和19)名古屋で病没した。
[ 執筆者:加藤祐三 ]

百科事典トップ > 哲学・宗教 > 中国思想 > 人名-清以降
汪中(おうちゅう)
(1744―94)
中国、清(しん)代の学者、文章家。字(あざな)は容甫(ようほ)、江蘇(こうそ)省江都の人。1777年(乾隆42)の貢生。家が貧しく、書店に雇われて働きながら経学に専念した。母に仕えて至孝であり、仕官の意なく畢 (ひつげん)の幕下に入ったことがあるぐらいのものである。当時の大学者銭大 (せんたいきん)、段玉裁(だんぎょくさい)、王念孫(おうねんそん)、孔広森(こうこうりん)らはその師友であり、その学識は高く評価されていた。『尚書考異』『春秋述義』などのほか荀子(じゅんし)や墨子(ぼくし)の研究に手を染め、諸子学研究の先駆者でもあった。文は漢魏六朝(かんぎりくちょう)を範とし、駢文(べんぶん)家として聞こえている。
[ 執筆者:佐藤一郎 ]

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汪直(おうちょく)
生没年不詳。中国、明(みん)の成化年間(1465~87)の宦官(かんがん)。大藤峡(広西チワン族自治区)の瑤(よう)族の出身。成化帝の万貴妃に仕え、のち御馬監太監(ぎょばかんたいかん)となる。1477年、検察刑獄を担当する西廠(せいしょう)の新設とともに責任者に任じられた。当初、南京(ナンキン)鎮監覃力朋(たんりきほう)の私塩に絡まる悪事を摘発して帝の信用を得たが、しだいに帝の寵(ちょう)を背景に、腹心を使って無実の人を投獄するようになり、その弊害のため一時左遷され、西廠も廃止された。それでもまもなく復活し、腹心の陳鉞(ちんえつ)、王越らと謀り、遼東(りょうとう)、大同方面に事を構えて軍事権をも掌握して専横を極めた。これに対し、閣臣萬安(ばんあん)らの非難が出、帝の寵も衰え、失脚した。
[ 執筆者:川勝 守 ]

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汪東興(おうとうこう現地読み:ワントンシン)
(1916― )
中国の政治家。江西(こうせい/チヤンシー)省泰和県出身。1927年毛沢東(もうたくとう/マオツォートン)が創立した江西省井岡山(せいこうざん/チンカンシャン)遊撃区で少年勤務兵となる。1934年長征に参加。延安(えんあん/イエンアン)で中国共産党要人の警護係を務めた。1949年新中国の北京(ペキン)で政務院秘書庁警衛処長。1949年末毛沢東訪ソに随行。1955年末公安部次官、1958年江西省副省長。1966年劉少奇(りゅうしょうき/リウシャオチー)に随行してパキスタンなどを訪問。1967年中央警衛連隊長、党弁公庁主任に就任、特務の責任者となる。1973年党政治局委員。1976年第一次天安門事件を弾圧。1976年10月「四人組」打倒に協力。1977年党副主席となるが、1978年三中総会で毛沢東盲信の誤りを非難され、1980年2月党中央委員に降格された。1982年12回党大会で中央委員候補最末席になり、1985年から党中央顧問委員となった。
[ 執筆者:高市恵之助・渋谷 司 ]

kingw001 发表于 2010-12-7 15:50:43

看不清楚:那么多错别字的?哈哈

九华星云 发表于 2010-12-7 19:21:45

回 1楼(kingw001) 的帖子

“看不清楚:那么多错别字的?哈哈” ,那不是错别字,而是日本国家文史部门用日本文字记载的珍贵历史资料。

汪根远 发表于 2010-12-7 20:18:51

引用楼主汪德林于2010-12-07 15:04发表的 刊登在日本大百科全书上的汪姓人物(总5位) :
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汪琬(おうえん)
....... http://www.iwangs.com/bbs/images/back.gif

汪德林本家:
      这样的“天书”,让人连读带琢磨,也不尽人意,如能译成国语就好读啦!

汪德林 发表于 2010-12-7 22:14:16

很抱歉!
汪根远本家:
由于:1,目的只是作为信息传递,并非研究;
2,这5位的事迹咱比日本学者掌握的资料要多的多.
所以没有翻译.

另外,我查找到一个新的资料,一位迁移到(现在属于日本)冲绳岛的汪姓子孙,他在那里,从日本大百科全书的介绍看,成了汪王。我在整理,并翻译。

再次向您深深至歉。

wang100 发表于 2010-12-7 22:52:38

东仔忒幽默了!

汪根远 发表于 2010-12-11 20:40:36

引用第4楼汪德林于2010-12-07 22:14发表的 :
很抱歉!
汪根远本家:
由于:1,目的只是作为信息传递,并非研究;
2,这5位的事迹咱比日本学者掌握的资料要多的多.
所以没有翻译.
....... http://www.iwangs.com/bbs/images/back.gif

德林本家:您好!
      谢谢您的回复。您也太客气了!再次向您致谢!!
      盼望您的(翻译)大作早日发表,让我们先睹为快!!
                再谢!!!
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